そう思った瞬間、液晶に表示されていた文字が静かに、そしてゆっくりと消えていった。ピタゴラスはまた静かになった。何を押してももうウンともスンとも反応しなくなった。さっき動いたのは、最後の力を振り絞って私に本当に別れの挨拶をしたということなのだろうか。何だか切ない……。
帰宅時に自宅最寄りの駅の改札を出ようとした時、私の前を中坊らしき少年が定期入れと思われるパスケースを、それについている紐を握ってブルンブルンと振り回して歩いていたのだが、そのパスケースらしきものから何やらカードらしきものが飛び出て地面に落ちた。だがその中坊らしき少年は、それに気が付かずにそのまま改札を出てしまった
許智政 。
私は地面に落ちたそのカードらしきものを拾い上げた。よく見るとそれは関西の電鉄で共通に使える「XXX」カードで、額面「¥3000」のものであった。
その中坊らしき少年が気が付いていないと言って、これを拾った私がそのまま懐にしまい込んでしまうとネコババになってしまう。これは立派な犯罪だ。もちろんそんなことをする気などまったくなかったから、すぐに私も改札を出て中坊らしき少年の後を追った。そして彼が背負っているリュックサックらしき鞄を手で「トントン」と叩いた。中坊らしき少年は振り返って私を見た。彼はまさしく中坊で、その横には母親らしき女性がいた。
「このカード、君のんとちゃうか。さっき君が振り回していたパスケースから出てきて地面に落ちたんを見たんやけど」
そう切り出すと彼は急いで手にしていたパスケースの中身を確認した。そして、あるはずのカードがないことにやっと気が付いた。
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「あっ、僕のです。ありがとうございます」
今時にしては礼儀正しい中坊だなと思った。
「もうこの子ったら、またパスケース振り回してたんやな。すいません、どうもご丁寧にありがとうございます」
横にいた母親らしき女性からも礼を言われた
不思議だ。大した出来事ではないが、よくよく考えれば滅多にお目にかからない出来事である。この出来事に遭遇するには、それまでにいくつもの選択があっただろう。乗る電車を一本遅らせたとか、乗る車両を一車両ずらしたから、降りた駅であるく距離が伸び、その結果彼の後ろを歩くことになった等等。一つでも違っていれば、彼のパスカードから飛び出したカードは違う人間の目の前で飛び出していたり、そもそも誰もそれを目撃しなかったかも知れない。そしてそれは彼の手元には戻らないという結果になっていたかもしれない。
そういう意味では中坊の君、私で良かったな。私みたいな超小心者が拾ったんだから実に運が良かったよ、君は。
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